古道を訪ねて<関山隧道と峰渡り>企画展
20日ぶりにブログアップです。
南蔵王周回からお山へは行ってません。
南蔵王周回では左足の古傷が病んでもうこれでお山とはお終いかなと…。
その後、ほぼ痛みは消えましたがこの通りの雨だし、地域の用事ありで…早く沢に入りたいな。
さて、天童の浅井さんからポスターが送られてきました。
開封してビックリ…(*_*)…何と何年か前に作成し現地に設置しました「峰渡りの」看板が写っています。
おそらく看板の位置と背景は一致しませんので加工しているのだと思います。

南蔵王周回からお山へは行ってません。
南蔵王周回では左足の古傷が病んでもうこれでお山とはお終いかなと…。
その後、ほぼ痛みは消えましたがこの通りの雨だし、地域の用事ありで…早く沢に入りたいな。
さて、天童の浅井さんからポスターが送られてきました。
開封してビックリ…(*_*)…何と何年か前に作成し現地に設置しました「峰渡りの」看板が写っています。
おそらく看板の位置と背景は一致しませんので加工しているのだと思います。

このポスターを見ると半世紀前を思い出します。
昭和30年代後半のこと、多賀城にある九州製缶という工場から缶詰缶となる原料(空缶)を積んだ父の6トントラック(当時はボンネット6トン車が主流)は関山峠にさしかかる。
現在の国道48号線関山トンネルの手前から左折する旧道は、ここで鋭い左折となることから惰性をつけて登っていてもスピードを緩めここでローギヤに落とすこととなりエンジンは唸りをあげて隧道にさしかかる。休みの時は殆んど助手席に座るのが私の楽しみでこんなライフスタイルが20代半ば(東京朝帰りして職場に行った…)まで続いた。私は跡を継がずサラリーマンになったが、この時代に仕事を融通しあったM運送はいまや仙台新港に社を構え大きな運送屋になっている。もしかしたら…俺も…なんて物思いに耽けってしまうが、サラリーマンになったから山にも行けたし、何とか年金暮らしで好きなことをやって自由人しているのだから本望ではないか…と、納得する。(^-^)/

話を戻します。
よく、関山峠というが、現在の峰渡りは1660年の開通を考えると、これ以前は何処にルートがあったのかと…。
それで、この4月から浅井さんと北面白山の北側(大境・北沢右俣)へ通ったのは、これ以前のルート確認であり、少しの区間であるが歩いて確かめることができた。
この内容は、4月~5月のブログをご覧ください。
①文明7年(1445)浄土真宗の僧である願正坊が関山を越え布教しながら天童の高擶に至り、現在の願行寺を創建した。
②天正12年(1584)最上義光との戦いに敗れた天童頼久は「伊達藩へ再起をかけて退いた道筋が関山越えし多賀城の八幡に領地を拝領したこと。
③天童城落城後、天童頼澄は喜太郎という忍者に導かれ、関山を越えて陸奥国宮城郡愛子(現在の仙台市青葉区愛子)に入り伊達氏を頼った。後に宮城郡八幡(現在の宮城県多賀城市八幡)に知行地をもらい、伊達氏の準一家として存続。 現在、多賀城市八幡に「喜太郎稲荷明神」(天童神社)があります。
萬治3年(1660)峰渡りと称する峠越えの街道が仙台藩により開かれ以前の道は…関山越え…なのです。
戊辰戦争の最中、慶応4年(1868)天童織田藩が庄内藩との戦いで館内を焼かれ、藩主一行が何を逃れるために関山越えをしたことは天童市史に残されてています。
関山越えは、小山田新道を辿り、県境(大境)から北沢右俣の傍ら800mラインを東に進み、北沢左俣を越えて新川岳南面を辿り奥新川に繋がる。これが浅井さんの長年の研究の証です。

ですから、関山越えは、現在の関山峠ではなく北面白山北側中腹の「大境」が関山越えなのです。
7日からの企画展はどんなものなのでしょうか。
興味のある方は、美味しい山形のソバをたべながらのぞいてみてください。

昭和30年代後半のこと、多賀城にある九州製缶という工場から缶詰缶となる原料(空缶)を積んだ父の6トントラック(当時はボンネット6トン車が主流)は関山峠にさしかかる。
現在の国道48号線関山トンネルの手前から左折する旧道は、ここで鋭い左折となることから惰性をつけて登っていてもスピードを緩めここでローギヤに落とすこととなりエンジンは唸りをあげて隧道にさしかかる。休みの時は殆んど助手席に座るのが私の楽しみでこんなライフスタイルが20代半ば(東京朝帰りして職場に行った…)まで続いた。私は跡を継がずサラリーマンになったが、この時代に仕事を融通しあったM運送はいまや仙台新港に社を構え大きな運送屋になっている。もしかしたら…俺も…なんて物思いに耽けってしまうが、サラリーマンになったから山にも行けたし、何とか年金暮らしで好きなことをやって自由人しているのだから本望ではないか…と、納得する。(^-^)/

話を戻します。
よく、関山峠というが、現在の峰渡りは1660年の開通を考えると、これ以前は何処にルートがあったのかと…。
それで、この4月から浅井さんと北面白山の北側(大境・北沢右俣)へ通ったのは、これ以前のルート確認であり、少しの区間であるが歩いて確かめることができた。
この内容は、4月~5月のブログをご覧ください。
①文明7年(1445)浄土真宗の僧である願正坊が関山を越え布教しながら天童の高擶に至り、現在の願行寺を創建した。
②天正12年(1584)最上義光との戦いに敗れた天童頼久は「伊達藩へ再起をかけて退いた道筋が関山越えし多賀城の八幡に領地を拝領したこと。
③天童城落城後、天童頼澄は喜太郎という忍者に導かれ、関山を越えて陸奥国宮城郡愛子(現在の仙台市青葉区愛子)に入り伊達氏を頼った。後に宮城郡八幡(現在の宮城県多賀城市八幡)に知行地をもらい、伊達氏の準一家として存続。 現在、多賀城市八幡に「喜太郎稲荷明神」(天童神社)があります。
萬治3年(1660)峰渡りと称する峠越えの街道が仙台藩により開かれ以前の道は…関山越え…なのです。
戊辰戦争の最中、慶応4年(1868)天童織田藩が庄内藩との戦いで館内を焼かれ、藩主一行が何を逃れるために関山越えをしたことは天童市史に残されてています。
関山越えは、小山田新道を辿り、県境(大境)から北沢右俣の傍ら800mラインを東に進み、北沢左俣を越えて新川岳南面を辿り奥新川に繋がる。これが浅井さんの長年の研究の証です。

ですから、関山越えは、現在の関山峠ではなく北面白山北側中腹の「大境」が関山越えなのです。
7日からの企画展はどんなものなのでしょうか。
興味のある方は、美味しい山形のソバをたべながらのぞいてみてください。
