耕前鋤後」

「耕前鋤後(コウゼンジョゴ)」とは…夫婦が協力して労働に従事することとか…。
「夫耕於前、妻鋤於後(夫が前で耕し妻が後ろで鋤す)」を縮めたものです。
解説すると、西暦405年、中国の陶淵明は41歳で煩わしい役人勤めを辞めて郷里に戻り農耕に従事し、63歳で亡くなるまで気ままに暮らしたそうであうる。そんな彼の生涯を記した「南史」75巻には「妻も夫の生き方に賛同し、苦節に耐えて夫耕於前、妻鋤於後の日々に甘んじた」と記される。<河北新報四字熟語の泉から引用>


ところで話は変わりますが、義父が6日早朝に亡くなりました。
享年93歳は、短命と思い込んでいる私からみれば凄い数、90歳までは軽トラを運転して畑に行き妻と耕運機を使って耕作していた。90歳が作り出したずんだ餅の味はまだ喉の奥にしまいこんでいる。昨年、車検に出した軽トラが津波冠水で廃車してからは出不精になっていた。
ICUに入り人工透析の処置を受けたが心臓の弁が弱まり、たったの9日間入院だけで子供らには手を煩わせないで逝った。



葬儀を終えて近親者で行う「百万ベン」
長い数珠をみんなで「南無阿弥陀仏」と唱えながら百回を回せば成仏だという。
「南無阿弥陀仏」の唱えは、いつしか「なんまいだ~」…「なめだー」となって終りを迎える。
百万遍念仏(ひゃくまんべんねんぶつ)とは、自身の往生、故人への追善、各種の祈祷を目的として念仏を百万回唱えること。
本来は、個人が念仏を7日間(もしくは10日間)のうちに100万回唱えることで目的が成就されるとされている。
ただし、複数の人間が同時同音で念仏を唱えることによって互いの念仏の功徳を融通することが出来るとする考え方もある



 義父は昭和16年12月15日に召集され中支那へ従軍した。私らに戦争のことは黙して多くは語らずであった。所属する隊は重機関銃部隊で、敵の迫撃砲の被弾で脇にいた戦友の屍はバラバラとなり、自分は脚に負傷しナイフで破片を取り除いた接種そうである。そして昭和21年6月に帰還後は農業に従事し、北洋の船乗りとなり生計を建てた。


 でも、弔辞で老人クラブの方が聞いており、中支那に行かれたときのことを語っていたようです。
 上海の街の様子、揚子江の川幅が広くて東シナ海との接点がわからないくらい広い…。
ジャンク、ガーデンブリッジ、水の都の蘇州、重慶の風物手に取るように話したそうです。

遺品を整理しているとわずかながらその経歴を知ることができました。

①昭和16年12月15日 東部第22部隊に入隊
②昭和17年3月10日  中支那派遣第13師団第104聯隊要員として出発
③昭和17年9月     第104聯隊第3中隊編入
④昭和18年       江北、江南、常徳作戦に参加
⑤昭和19年       湖桂作戦に参加
⑥昭和20年8月15日  終戦
⑦昭和21年6月     内地帰還

 終戦日は知っていてもあとのことはわからない。やはり、この機会だから知っておくべきとネット検索してみた。

【中国大陸打通 苦しみの行軍1500キロ ~静岡県・歩兵第34連隊~】一部抜粋から
 大陸打通とは、南方資源の輸送路を、米軍の攻撃によって破壊された海上輸送とは別に、中国を貫く内陸交通において確保することであった。
そして、台湾を攻撃してきた米軍の航空基地を占領することを目的にした作戦だったようである。参加した兵士は支那派遣軍のおよそ50万人で、揚子江流域の部隊を仏領インドシナまで1500キロ進軍させるという日本陸軍史上最大の作戦であった。この敗退する太平洋戦線の巻き返しを図る作戦に、各連隊も加わった。
 当時、中国軍は兵力で日本を上回っていたようで、支援する米軍の爆撃機B29も空から日本軍を追い詰めた。日本軍は爆撃を避けるため、物陰に身を潜めながらの行軍となった。
兵士たちは水不足にも苦しんだ。渇きに耐えられなくなった兵士たちは、田んぼや道ばたの泥水を口にし、休む間もなく歩き続けた。兵士たちの間に下痢やコレラ、赤痢がまん延し、行軍と疲労、病気の苦しさのあまり、自ら命を絶つ者もいた。義父もマラリアに伝染したみたいで野戦病院に収容されたという。
 昭和19年(1944年)11月10日、苦しい行軍の末、日本軍はついに目的地である柳州・桂林を占領。大本営は、日本による中国大陸打通の成功を発表した。しかし、もはや日本軍に、中国を縦断する鉄道や道路を整備する余力はなかった。また、米軍は、すでに太平洋上のグアム、サイパンでの飛行場建設を終え、戦略上不要となった柳州の基地を自ら破壊していた。
 日本軍は、昭和20年5月、本土防衛のため、南京まで戻るよう命じられた。兵士たちが日本の敗戦を知ったのは、その行軍の途中だった。残ったのは、戦死者の遺族の悲嘆と、中国民衆の怨みだけであった。


火葬で骨を拾う時に、果たして迫撃砲の被弾はあったのか不謹慎ながら灰を探ってみた。なかなか見つからなかったが出てきたのは2個の金属の破片は間違いなく被弾していたようだった。70年もの間、異国から自分の体内におさめていた金属片は、2度と戦争はするなと我々に呟いていた。合掌

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No title

身内の方のご不幸があったとは存じませんでした。
享年93歳とは大往生でしたね。
故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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つい先日までお元気でらしたのですね。
すばらしいお父様だった事と思います。
ご愁傷様でした。

No title

SONE さん
そんな訳で、お山は引き下がっていましたよ。
いずれこの時が来ると思っていたんですが、まだまだ心の準備ができていませんでした。
本人は100まで願望だったようですがね。
ありがとうございます。

No title

utinopetika2 さん
年齢からすると納得するのですが、まだまだ大丈夫だと思っていました。
生き残りの日本兵が少なくなってきましたね。生前中は遠慮せずに聞いておけば良かったかなと反省…。
ありがとうございます。

No title

多分、亡父と同じくらいの年齢だと思いますが、戦争の真っただ中を銃後のために戦い、辛酸をなめ、戦後は復興のために頑張った。
お父様のご冥福をお祈りいたします。

お父様に対する愛情に満ちた記事に、やさしかった私のお父ちゃんを思い出しました。彼岸の入り、墓参りしてきます。


No title

93歳と聞いて大正8年生まれですよね。自分の亡父と同じ年齢ではないかな。
大戦では東南アジア方面に行ったと聞きました。マラリアに感染したとも。亡くなって30年以上も経ちますが、登山、スキーを教えてもらって今の自分があると感謝して、山をみれば思い出します。思い出す、思うことが供養になるとか。
ご愁傷様でした。

No title

tkさん
今晩はー。
開戦と同時に召集されて外地に5年もいたのでした。
銃後護りの軍人さんが頑張ったので、今の日本があるのですが、この努力の方向だけは誤ってはいかないと思います。
ありがとうございます。

No title

ranger3さん
お寺では胎内から1歳と数えるそうで、満で91歳を過ぎたのですがそうなるようで、大正9年生まれです。
そう、義父も同じくマラリアに感染しています。戦病死の軍人さんも多数いたようですね。
いゃぁ、(^^)父に登山、スキーを教えてもらったのでは、筋金いりですね。
山に行けば会えるのがいいですねぇ~(^o^)。
ありがとうございました。

No title

ご自宅でいいご葬儀でしたね~百万ベンは懐かしいですね~
お料理も隣近所のお手伝いの方々の真心が感じられます
私はこれまで裏で作る側でしたから~

会館での葬儀が多くなって楽ではありますが繋がりが希薄になって
しまいますね
このような見送り方が出来て故人様もご成仏が早いですね

私の父もシベリアで捕虜生活・・あまり多くを語りません
兵隊に行った方の肝は特別なものですね

ご冥福を心よりお祈り申し上げます
素晴らしい記事でした~☆~★~☆

No title

papicom さん
会館か自宅か迷いましたが義父の意志もありました。
葬儀が終わったあとの百万ベンは、葬儀の区切りですねぇ~30分は汗をかきます。
葬儀のあり方、接客で終わってしまったら個人との別れを十分しないでしまった(実母の時)…段々とこれまでの葬儀が工夫されているようです。葬儀は4日目でしたよ。これまでどおりの5日目を希望したら震災日前日で大変と住職から4日目を打診されました。5日目は荒天だったので正解でした。
シベリアでの捕虜、抑留生活は辛酸だったでしょう。今の日本は兵隊さんの汗と血でできたことを継承しなければなりませんね。
記事^^;ソウカァ~

No title

4日仏でしたか・・・
なるほど正解でしたね
仏の御心のままだったのですね

No title

お義父さまでしたか。
日本の国を守ってくださってありがとうございます。
もうすぐ100歳になる私の祖父(本当は叔父)から
戦の話を聞いたことがあります。
身内の話はとてもリアルで、もうそんなことが無ければ良いと思いました。
その時に命がけで国を守ってくださった方々が安らかに過ごせる
日本であってほしいなと思います。

ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

No title

papicom さん
3日は短いし、5日は長いし、4日がいいですね・・・
仏の御心…承知しました(^o^)

No title

ナカシィ さん
日本の国の守り、色んな考え方もありますが護国=平和ですからね。
義父のお姉さんももうすぐ100歳ですよ。90歳から生きる力は凄いです。
戦に行った方が少なくなってきましたね。
私らは、あの戦争を忘れないために伝承しなければなりませんね。有り難うございます。

No title

私の亡父も中国戦線へ行っていました。
病気になり朦朧状態で歩いたり、足に銃創があって、破片が入っていることなど聞かされました。
この年代の方々は皆さん同じだったのですね。
ご冥福をお祈りいたします。

No title

morino さん
今日は、お山にいってたかなぁ~。
そうすると、皆さんは兵隊さんの子息ですねぇ~。
私の父は徴兵検査で終戦を迎えました。
九死に一生で生き残って帰国し、戦後の動乱期を築いていただいた。頭が下がります。(_ _)
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