七ヶ浜パシフィック漫歩

【日  程】2015年1月18日(日)   【天 候】晴
【メンバー】ジュンさん、高○さん、佐々○さん、阿○さん、マロ7 計5人
【コース】 8:35あずき浜P~高山外人部落~8:50表浜~9:20花淵灯台(御殿山)~花淵崎~9:50鼻節神社~10:25君ケ丘~11:15多門山~12:05笠岩堂~12:40大木囲貝塚~柏木神社~13:20大代飯店13:50~14:10大代横穴古墳群~升形囲貝塚~14:25薬師堂~弁天神社~14:50御殿崎15:10~15:30眺望崎~16:00あずき浜P
歩行距離約21km 所要時間 7時間半

マロ子も連れてって…。<(`^´)>ダメヨ~ダメダメ
前夜に七ヶ浜パシフィック漫歩資料(Aー4.10ページ)を作成したみた。
いずれは、改訂を重ね自分の考えをいれてバージョンアップしてみたいなぁ~。
今日はお山に行かないで、青空と紺碧の海を見ながら東北で一番小さな町を周回してみよう。
標高60mに満たない半島の町を8時半から16時まで、21㎞の歩き、累積標高差は434mと出たから驚き。
道先案内_R

あずき浜にからスタート、ここの地名は、小豆を積載した船が漂流してきたとか…??
50数年前に父とマテ貝を採りにきたことを思い出した。マテ貝はその後見たことはない。
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遠く南の水平線上に鹿狼山が見えた。その奥に相馬火力の煙突の煙(水蒸気である)がたなびく。
年に数回はもつと向こうに原町火力の煙突も見えるのだが、今日はこれが限界。
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秋田県の黒又山をご存じだろうか。この山は日本のピラミッドだそうである。
エジプトのように石を積み上げたものではなく山頂で祭事を行った遺跡だそうである。
亡くなった恩師が曰く、まぎれもなく七ヶ浜にもピラミッドがありそこで土師器を採取したと言ってたが場所は定かでない。
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「高山ビーチカンパニー」、異国ムードのこの地は七ケ浜のオアシスである。
明治21年(1888)、当時第二高等学校の英語の先生だったハーレル博士がこの地を発見し、ついで東北学院長シュネーダー博士が、好適の避暑地として在仙外国人を勧誘し、翌22年(1889)に7棟の別荘を建築したのが始まりです。明治40年(1907)には当時の七ヶ浜村との間で999年の地上権が結ばれました。高山外国人避暑地は二つの山の総称、表浜海水浴場から海に向かって右側が高山、左側が戸谷場地区となっています。
大東亜戦争でこの地上権は消えたが、敗戦国となった我が国、この地上権は消滅しなかったようだ。
当時は、野尻湖、軽井沢と日本の三大避暑地だったらしい。
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やがて表浜に出る。西側の崖には無数の穴が、表浜横穴古墳群である。
この地域は多賀城に国府があった時代の製塩遺跡が点在しいる。
当時の塩は貨幣と同じ扱いをされていたみたいで、今ふうに言えば、造幣局だろうか。
その、役人たちの墓が横穴古墳群となっている。
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表浜からの菖蒲田浜海水浴場、防潮堤の工事が真っ盛りである。
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鼻節神社の鳥居をみて道を右へ進む。
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花淵灯台は花渕浜保ヶ崎(ほがさき)に総工費1,578万円、2年かけて建設し、昭和39年10月27日から点灯された無人灯台です。白色円形コンクリート造で、灯台の高さは20メートル、海面からの高さは62.5メートルになります。光は37.8キロメートルまで届き、暗礁の多い同海域の道しるべでした。灯台の隣には祠(ほこら)があって、鼻節神社の旧社殿跡といい、その祭神猿田彦は、天孫降臨の際、先導をつとめられた故事から、開拓の神・陸上海上の道しるべの神として、全国各地にまつられております。DSC06752_R.jpg

灯台から強引に藪を漕いで岩に出ると紺碧の海原に心が躍る。(^v^)
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ちょうどフェリーが入港してきて、見とれる。
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地上権設定の高山、言いかえればあと何百年もこの光景が保たれる担保なのかと後にした。
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しばらくぶりに訪れたら桜の木が植えられていた。ここは、○月あの黄色の可憐な花が咲くのだ。
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鼻節神社社殿、多賀城の奏社の宮には奥州百座には宮城郡の4社が刻まれておりその一つが鼻節神社である。
地区の旧家に残されている「鼻節大明神御縁起」によると、今から2400年ほど前の第6代孝安天皇(前392-前291)の時代に、猿田彦命(さるたひこののみこと)を祭神として花渕浜吼坊ヶ崎(こうぼうがさき)に勧請し創建されたと伝えられています。この神社は、多賀城を陸奥国の役所としていた頃に使われていた、国府厨印(こくふくりやのいん)が明治のはじめ神社修復の際に発見されたところです。
 また平安時代に、全国の神社を調べた古い記録の延喜式内神名帳(えんぎしきないじんみょうちょう)にも名前があります。大社(たいしゃ)と小社(しょうしゃ)に分けられていますが、名神大社(みょうじんたいしゃ)に属する位の高い由緒ある神社です。清少納言の『枕草子』や、『朝野群載』(ちょうやぐんさい)にも記録があり、これらによって朝廷の尊信を受け、民間の信仰がいかに厚かったかを知ることができます。
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君ケ岡は標高59mの高台にあり、頂上付近には大きな展望台があります。ここからは、牡鹿半島、眼下に松島湾の島々を見晴らせます。また、本町や多賀城から仙台方面へと続く町並み、さらには奥羽山脈までの眺望がすばらしく、四囲の展望が楽しめます。
 明治33年(1900)には皇太子(大正天皇)御成婚祝賀会がこの地で開かれ、それを記念して桜の植樹が行われました。「御慶事の記念桜や君ヶ岡」と詠(よ)まれた記念樹は今はもうありませんが、君ヶ岡公園は、春には桜の名所として花見客で華やかな賑わいを見せます。約400本のソメイヨシノは、若木が多いですが、花のボリュームは満点です。また、昭和56年(1981)に植樹された30本も「四季桜」は、春の季節はもちろん、秋から冬にかけてもその木々に可憐な花を咲かせます。 
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君ヶ岡は、その昔、「きびがおか」と呼ばれていました。その名の由来には、二つの説があります。一つは、竹の水門(たけのみなと)に上陸したと伝えられている日本武尊(やまとたけるのみこと)に仕えていた吉備武彦(きびたけひこ)の姓をとって吉備ヶ岡とするもの、もう一つは里人が黍(きび)を栽培していたので黍ヶ丘と名づけられたというものです。いつから君ヶ岡と呼ばれるようになったかは定かではありませんが、「きみがおか」という名称は「きびがおか」がなまったものではないかと考えられています。 もちろん四季桜が咲いていましたよ。
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一行は、多門山へと向います。
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盛んに稼働している海苔乾燥庫の脇を通り…(^-^)海苔の香りがいい
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多門山の参道。
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松島四大観とは、江戸末期に仙台藩儒学者・船山万年によって選定された松島に浮かぶ約260余島を眺める、松島湾岸四ヶ所にある展望ポイントのことです。多聞山は、標高56メートルの八ヶ森の景勝名で、中腹に多聞天像を安置する毘沙門堂があるので、多聞山と呼ばれました。眼下に馬放島や地蔵島、松島湾内の島々が広がるその雄大な眺めはまさに「美観」(びかん)という言葉にふさわしいものです。ここから見える島々が日本庭園の庭石のように配置されていることが、ここからの眺めの特徴となっています。
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私的にですが、山桜の咲く5月の初めに訪れると最高の景観です。
漁港では鯉のぼりが沢山泳いでいますよ。撮影していただきました四国のYさん、ありがとう(^-^)
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太白山、奥羽の山並みは見えませんでした。
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天神社で…
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菅原道真公にお会いして。
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笠岩様へ
ご本尊は笠岩観世音といい、出羽三山から訪れた修験者、明海上人(めいかいしょうにん)をまつった小さなお堂です。
その昔、修行のためにこの地を訪れた明海上人と正海上人がお亡くなりになった時、逆さまに埋葬するように遺言を残しましたが、区民はいかに遺言といえ、逆さまに埋葬することはお忍びなく、正しい形で埋葬しました。まもなく区民達の間で熱病が広がったので祈祷をしたところ、上人の遺言を守らなかったことが原因であると伝えられ、早速改葬すると病気はたちまちのうちになおったと伝えられています。その後、笠岩堂は風除けの神様として近郷近在(きんごうきんざい)に知れ渡り、祭日には参拝者が行列をなして参道を埋めつくしました。毎年旧暦2月8日の縁日の日にお堂で配られた祈祷符は、各家の入口に逆さまに貼る慣わしになっています。
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大木囲貝塚は、
昭和43年(1968)3月18日指定 指定面積約19.7万㎡、塩釜湾に突き出た標高約35mの台地上にある縄文時代前期・中期の大規模な集落跡です。「大木」は「だいぎ」と読み、かつて貝塚内に大きな木があったことがその由来ですが、残念ながらその木は枯れて現存しません。この台地は古くから畑として利用されており、耕す度に土器のかけらや石器などが出てくるので、畑としては大変耕しにくい所だったそうです。
 貝塚の発掘調査は、大正6年(1917)の調査を皮切りに、現在まで多くの研究者によって行われてきました。調査では土器や石器、魚・動物の骨、貝殻がたくさん見つかっていますが、特にここから出土する縄文土器は「大木式土器」と呼ばれ、東北地方を代表する縄文土器の一つとして現在評価されています。昭和43年(1968)3月には、貝層が現在も良好に残っていること、大木式土器の標式遺跡であることが評価され、約19.7万㎡もの広大な面積が国史跡に指定されました。
 指定後、町では史跡公園化の整備と、整備に伴う発掘調査を行い、現在は地域の憩いの場として開放されています。昭和61年(1986)8月には、集中豪雨(8・5豪雨)によって西側の斜面が大規模に崩落し、大量の縄文土器や石器、貝殻、魚・動物の骨が出土し、改めて大木囲貝塚の遺物の豊富さが確認されました。
青森の三内丸山遺跡は縄文の巨木文化として有名ですが、元祖はこの大木囲貝塚なのです。
s40年ころと定かではありませんが大きな柱穴が発見されました。しかし、当時の考古学会はこれを相手にしなかったようです。時代が変わって光を浴びた三内丸山遺跡ですが、ここ大木貝塚は数割程度しか発掘していません。
これでいいのです。時代の進歩で色んな計測機械が開発されればこれにより解明されることも多く出てくるでしょう。その時がこの貝塚の出番なのと思います。
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御一行さま、おなかが空いて目指すラーメンは休日閉店でした。<(`^´)>
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そして歩くこと30分、多賀城市に越境して「大代飯店」にて美味しい味噌ラーメンに辿りつきました。DSC06811_R.jpg

あっさり味ですが、スープまで飲みほしましたよ。
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大代横穴古墳群を垣間見て
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枡形囲貝塚を通過、ここ知ってますよね。
私たちの中学の頃の教科書に載っていました。
弥生の頃に東北で稲作は定説ではなかった。これを翻したのはここから出土しました土器の底辺に籾痕跡があったのです。話は変わりますが、画像右手にはs40年半ばまで大きな建物がありました。終戦まで、菅原組が管理していた異国人のタコ部屋だそうです。私の母の話ではボロボロの寝巻みたいな服をまとった方々が繋がれて多賀城の海軍工廠まで行き来していたそうです。戦争の悲劇は私の近くでもあったのです。
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そして、薬師堂へ。
薬師堂は、幅一間、奥行き約五間半の岩窟に半肉掘りの薬師像が刻まれています。七体あったうち三体が現存し、他は風化により消えかけています。これを本殿として屋根をかけ、旧河道に向いて拝殿が建っています。伝説によると宮城郡名の三薬師を慈覚大師(じかくだいし)が、海上安全を祈願するために一夜にして彫り上げ、そのできあがり時刻によってそれぞれ名付けたと伝えられています。
・「宵の薬師」岩切の東光寺裏山
・「夜中の薬師」利府の菅谷
・「夜明けの薬師」湊浜薬師堂
 湊浜には磨崖仏座像(薬師座像)があり、町歴史資料館で複製を見ることが出来ます。
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境内の萱の大木は津波の影響でだいぶ枯れてきたみたいだ。
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目の薬になるという、冷鉱泉。
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途中の茂みは戦争遺産で(見えません)ある。
米軍が湊浜に上陸した場合に備えてコンクリートでトーチカが作られた。
ここに機関銃を備える計画であったそうだが昨年探索したところ、まことに貧弱なトーチカであった。
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七ケ浜で唯一のトンネルを潜れば松ケ浜漁港である。
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私が幼少の頃は白砂青松の場所、防波堤が造られ岸壁が出来原形は変わった。
そして、共同の海苔乾燥庫ができ、渡波にあった県の水産施設も建設中である。
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御殿崎の景観、眼前の崖には黒松の大木があったが大津波で無くなった。
実際に、平安の大宮人(おおみやびと)〔※京都の宮中に住まう人々〕は、松ヶ浦島を歌会の課題としました。清少納言は『枕草子』の中で「島は浮島、八十(やそ)島、風流(はなれ)島、水島、松ヶ浦島、籬(まがき)島」とあげ、註に「松ヶ浦島、籬島は陸奥(みちのく)。八十島、島にあらず・・・」と説明するほど多くの歌人がこの地を歌の題材として取り上げました。また、『続古今集』に「心ある蜑(あま)〔※海に入って貝・海草を採る女性〕や植ゑけん春毎に藤咲きかかる松ヶ浦」(後嵯峨帝)とあるように、いにしえの御殿崎は藤の花が美しく咲き誇る地としても知られていました。
 藩政時代になると、仙台藩主伊達家の遊覧地となりました。その中心となったのが伊達政宗が松ヶ浜でもっとも眺めの良い鴻ヶ崎(こうがさき)に建てさせた仮館でした。その後、鴻ヶ崎はお殿様の仮館が建つところという意味から『御殿崎』と呼ばれるようになり、その地名が今も残されています。
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牡鹿半島をバックに。
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鰐鮫伝説もあります。
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御殿崎から北進すると御殿場旅館に出ますが私有地で通行禁止になっていますのでご注意ください。
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御殿崎と乙女ケ浜。
御殿崎北東側には、地区で乙女浜と呼ぶ小さな浜があります。「お留浜」の転訛(てんか)との説もあり、藩主が御殿崎の仮館に滞在している間は、『お留め』つまり立ち入り禁止の処置がとられたのではないかとも言われています。
向いの島は昭和初期まで陸続きだと母が言ってたし、畑もあったそうだ。
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黒崎の溶岩流、数十万年前に海底噴火があったという。
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子供たちの元気をいただきながら、オジサンオバサンたちは進みます。
この少年野球チーム、女の子が入っていましたよ。
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そして菖蒲田浜へ。
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眺望崎と菖蒲田浜海水浴場。駐車場所は向こうである。
明治21年に東北で初めて、全国でも3番目に開設され毎年5万人の海水客が訪れる県内有数のマリンリゾート地です。サーフィンやウィンドサーフィンなどのメッカとしても有名で、一年中マリンスポーツを楽しむ若者達で賑わいを見せています。
※日本最初の海水浴場(明治14年)愛知県千鳥ヶ浜
※二番目の海水浴場(明治18年)神奈川県大磯の照ヶ浜海岸

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荒れ地となった大東館跡地。
明治21年(1888)、菖蒲田海水浴場が開設されたことに併せて大東館が建てられました。当時の海水浴は『塩湯治』(しおとうじ)と呼ばれ、療養を目的に全国へ広まりました。18世紀の中頃、イギリスの医師が海岸に患者を集め、海水に浸らせたのがその始まりだと言われています。大東館はいわば湯治をするための療養(保養)施設で、財界人や軍人などの有名人の来館が後を絶たなかったと言われています。上棟式には若き後藤新平(※のちの満鉄初代総裁・東京市長)も出席したと言います。その後も、文人では島崎藤村や宮沢賢治なども訪問しています。しかし、場所は岬の突端にあり風や波によって浸食が激しく、建替えの話もあったそうですが結局は撤去されてしまいました。
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新築の堤防。
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カンカン鳥??昔からここではそう呼んでいたな。
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祈望の鐘を鳴らして、もうすぐゴールです。
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国際村と灰捨場。灰捨て場は仙台火力の石炭焼却灰の埋め立て地であった。ここに震災の瓦礫が積まれて町内最高標高となっている。
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予定よりオーバーしましたが、充実した「七ヶ浜パシフィック漫歩」になったようです。
見るところはまだまだ、御秘所は次の機会にしましょう。
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帰路、我が家でマロ子に会って「お茶会」
オジサンオバサンお疲れ様でした。また、来てけさいん。(=^・^=)
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ルート図。
七ヶ浜名所

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七ヶ浜

18日は本当に有り難うございました。美里に居ながら初めてこんな素敵な七ヶ浜に来ました我が家の夫は釣りで来ているようです何しろ趣味が違うので!又暖かくなったら山友達と行きたいと思います。
分かりやすい説明で案内されて勉強にもなりましたよ。
又奥さんの笑顔が素晴らしい~まろさんの家庭の温かさが分かるようです。又いつかお会いしたいなぁ~と感じます。まろさん達のような沢登りは出来ませんが新田さんの企画の山で御一緒して下さい。
ゆっくりまろさんのブログ拝見させて頂きます
素敵な奥さん、わんこのまろちゃんに宜しく

No title

高橋さん
遠く美里からようこそでした。
はじめての案内で、私の説明ではどうかと悩み…(^-^)これでいけそうかな。
皆さんがお出でなりましたので久々の笑顔でした。(=^・^=)
新田さんの企画の山、楽しみにしておりますよ。
おっ家内はコタツでお寝んね、マロ子はコタツに入り私の足を舐めています。(^u^)
!山友達さんと御秘所にお出でください。

No title

七ヶ浜一周は20kmを超えるんですね。
浜を全て網羅するのは地元の方しか行き方が分からないと思いますよ。
寒い中、温かいラーメンがお昼の食べられるのもミソですね。

No title

七ケ浜は見どころタップリですね。
そのうちごマロ子ちゃんと一緒に案内ください。

No title

SONEさん
一周20kmの距離はただ歩いても時間ですね。
今回はほぼ外遊ですが、残した所も大分ありました。
地元だとショートカットが効果的ですね。
あたたかいみそラーメンうまかったです。(^-^)。

No title

morino さん
七ケ浜の見どころは紺碧の海と浜のコラボですね。
morino さんの腕がなるところですよ。(^u^)

No title

遅くなりました。
先日は本当にありがとうございました。
初めて七ヶ浜を訪れましたが、近くにこんなに歴史深いところが合ったのかとびっくりしました。
いろいろと説明もしていただき、素晴らしい資料も準備していただきありがとうございました。
今度は桜が咲く頃に又歩いてみたいと思っています。
奥さんにもよろしく。

また、来てけさいん。

順子さん
ようこそお出でいただきました。
浜の歴史はそんなにあるとは思わないのですが、あらためて歩きますと幾分かはありましたね。
桜が咲く頃は大木と君ケ丘と多門山かな。(^^)~~

No title

きょうはパソコンが機嫌いい! バケてない(嬉)
七ヶ浜の、各地の歴史のことなど、いろいろ教えていただいてありがとうございます。
21km 7時間半とは、よく歩きましたね。
海を見ながら歩くの大好きです。
暖かくなったら、このページをプリントしてお友達と知ったかぶりをしながら歩きたいと思います。

ルート図だよ

yamanbaさんことtkさん
パソコンが機嫌いいすか(^_^)v
海を見ながら歩くのは晴れ渡りました冬がおすすめですよ。
ルート図に名所いれてyぽうやくアップしました。
少しでも参考になればいいですね。
よろしければ案内しますよ。(^_^)v:
プロフィール

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Author:FC2USER696672BEO
「マロのページⅢ」ブログへようこそ!
やんちゃ姫のマロ子とお山を歩きます。(^o^)

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