仙台藩宿老但木土佐と戊辰の役

土日と連日、歴史の講演会を受講した。
今年は戊辰戦争から150年にあたり県内各地でもこれらの講演会もかなり開催されており、全部には行けない。
6/24は仙台郷土研究会「戊辰戦争と仙台藩の諸藩連携構想」
7/1は、一関市藤沢市民センターでの「藤沢町歴史シンポジウム・丸吉皆川家日誌みみる戊辰戦争前後の仙台藩・藤沢」と…
聴講予定で、アレレ、お山はどうすんの…と、天の声が聞こえる。
画像は、七ツ森の鎌倉山中腹にある石碑「髭題目」で、但木土佐の名前が刻まれている。
ここを登っているうちに何気なく見た名前の但木土佐は、江戸から明治に変わる激動の時の仙台藩宿老であった。
「南無妙法連華経」石碑は、これまで通過していてスナップ的な写真撮影だけで碑の内容には無関心でしたが、
数年の2月伊達塾において「仙台藩家老但木土佐の生涯」の講演を聞いたときに、あぇ、確か鎌倉山の石碑も但木土佐だった。
参考 http://maro407080.exblog.jp/14743932/

秋口になって、この時の榎戸講師にお話ししてみた。但木土佐の宗派は臨済宗なのに、「無妙法連華経」の日蓮宗とは…、なぜ山中にこのような石碑があるのか…????。<わかんねぇなぁ>

画像は、鎌倉山でのマロ子と石碑です。
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いつかの登山で、雪で文字を明確にしましたが、左側の但木土佐の名前はしないでしまった。(後悔)
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ここの「題目塔は」、鎌倉山方山頂から北側へ少し下った尾根上に自然石を利用して彫られている。
高さ2メートルはあるだろうか自然石の正面に、『南無妙法蓮華経』と彫られ、150センチの日蓮宗独得の髭題目の磨崖題目塔である。
脇には「天保十三壬寅年(1842)廣潤山拾七世 但木成之代建之」とある。仙台藩家老の但木に代わって、廣潤山の住職が建てたというのである。天保十三年は但木土佐25歳、宿老に任ぜられ2年目で、これから52歳までの激動の27年間を生き抜くのである。明治2年5月18日函館戦争が終結した翌日、坂英力とともに江戸にて処刑された。
江戸末期から明治にいたる「戊辰戦争」は東北にとっては悲惨な戦争であった。賊軍を汚名を着せられ奥羽諸藩、仙台藩は但木土佐はじめ坂英力、玉虫左太夫など有能な方々が責任を取らされた。
七ッ森の題目等の設置の謂れは2013年1月20日(日)の「冬の七つ森3山」にアップしています。
http://maro70.blog.fc2.com/blog-entry-326.html

そして、6/17(日)大和町にある臨済宗保福寺には、講演を聴講するのに本堂が満員となった。
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講師の千葉茂さんは大和町の郷土史家、元高校の教師、校長で某高校の山岳部顧問をしていた。
固い話だと思ったら、愉快に楽しく興味津々と話がされた。
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江戸後期の吉岡の町並み、史実と合致する図面だそうです。
会場には、自分の家があったと興味深く見ている嬉しそうな顔がありました。
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同寺に伝わる但木土佐公の肖像画を祭壇に飾る。 
仙台藩の首席奉行として戊辰戦争で指導的役割を担い、敗北後に明治新政府に処刑された但木土佐(1818~69年)
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本堂は満員。
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 但木家の末裔は、元検事総長の但木敬一さん(74)=東京都=が「土佐公は平和を求め、己の信念に従って行動した。処刑されても思い残すことはなかっただろう」と語った。それにしても、血筋とはすごいですね。
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 但木土佐公の業績を記した顕彰板が、境内に設置された。戊辰戦争の戦死者4人が供養共に供養されている。
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浅野元・町長は「現在の町の発展は、郷土を守ろうとした土佐公ら尊い犠牲の上に築かれた」と述べれれている。
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元、検事総長の名刺だよ。
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 但木家の家臣の子孫らで組織する「土佐会」(中山和広代表)。
 但木土佐公は吉岡(現在の大和町)領主で藩の財政再建や殖産興業を進めた。
戊辰戦争では新政府から「朝敵」とされた会津藩を救済しようと和平交渉に奔走し、奥羽越列藩同盟の結成を主導したのだが…。
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領主とは思えない簡便なお墓は実名である。戒名は「七峰樵夫」七つ森の樵(きこり)の意味だそうです。
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戊辰戦争終結した後、但木土佐公は「尊王開国・会津恭順」、仙台藩内でも対立(意見の相違)した、遠藤文七郎「尊皇攘夷・会津征伐」らの再対立により江戸に護送され、盟友の坂英力と明治2年5月19日に切腹した。仙台藩は玉虫左太夫など惜しい人物を失い明治の時代へと突入するのである。
画像は、鶴巣から見た七ツ森。
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正義とは

数々の関連本の読破、聴講、すごいですね~。
斬首になった但木土佐公等、そうさせた遠藤文七郎等。それぞれの掲げた「正義」の実現道筋の違いに、戊辰戦争はもとより、いまなお続いて止まない国内外の紛争や身近なところでの諍いにある「正義」とその「実現」の違いとが、思い連なってしまいます。

戊辰の義

福島藩の板倉氏がどっちにつくか判断を迫られたときの決断は、仙台藩の顔色もみたでしょうが、福島藩が取り潰しになるかの瀬戸際に会津藩保科公が寛大な判断を幕府に求めたのでその恩義もあったようです。
同じように、仙台藩も伊達騒動のときに取り潰しの難を免れたのは会津藩保科公の力もあったようで、両藩とも会津に恩義があったようですね。
明治に入り仙台藩の富田鉄之助が日銀総裁になりましたが、玉虫左太夫が生き残ってれば宮城の状況も変わっていたのではないか。
遣米使節団で福沢諭吉と一緒に行った玉虫左太夫、福沢は彼の死を知り嘆いたようで、明治政府で文部大臣の登用も考えていたとか…。
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