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「おくの細道」仙台領内・奥州街道編研修会


2018.12/15(土)
仙台駅→福祉大前→高速→国見IC→弁慶の硯石→伊達の大木戸→厚樫山防塁→伊達五山・観音寺→昼食・奥州街道桑折宿特製ランチ→桑折西山城本丸→伊達五山・満勝寺(伊達朝宗墓所)→佐藤家・ゆかりの医王寺→桑折駅→高速で戻る
お山はすっかり真っ白でしょうね。今日は歴史探索会、こんなルートで、行って来ます。

青麻山は快晴…どなたか登ってますかな。
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東北道を南下、初めての参加ながら皆さん和気藹々です。
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ちらり不忘山が見えたが吹雪いてるだろうね。
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桑折町商工会 渋谷浩一会長さんの説明でスタートです。
これより記載の史実は桑折町のHPより引用させていただきましたので、ご承知ください。
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弁慶の硯石
源義経に仕えた弁慶が硯として用いたとの伝説や、硯となった中央の窪には水がかれる事なく溜まり続けるとの言い伝えのある奇岩。
平泉にいた義経が兄頼朝が平家追討の兵を挙げたこと知り、急遽(きゅうきょ)、鎌倉に向かいます。武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛、佐藤継信、忠信といった郎党を先頭に300余騎、全速力で駆け続けますが、この地を通った際この山預でひと休みし、閲兵(えっぺい)をしたとのこと。その時に武蔵坊弁慶がこの硯石の水で墨を摺り、義経軍の兵の名前を記したと伝えられます。硯石は上の面がくぼんでいて硯のようになっており、そこにある水がなかなか枯れないことでも知られます

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伊達の大木戸
 国見峠は厚樫山の東腹部に位置し、古代においては律令政府の都である奈良や京都、中世以降は武家政権の幕府が置かれた鎌倉、京都や江戸より陸奥、出羽の両国へと続く官道が、この峠越えに伊達と刈田郡境の地峡部を通り、北へと走っていた。この道は東山道、奥の大道、奥州道中、陸前街道と時代により呼称が異なるが、奥羽地方の幹線道路として機能していた。
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 伊達駅(藤田宿)を経由し、ほぼ直線状延びた古代の東山道は、阿津賀志山防塁を切り通したあたりから長坂と呼ばれる急な坂道にさしかかり、上りつめた所が国見峠である。この峠周辺一帯の地は、文治5年(1189年)の奥州合戦で源頼朝と藤原泰衡の率いる両軍が激戦を交えた古戦場であり、信夫郡石那坂(現福島市)の戦いで敗死した泰衡の郎従佐藤基治等一族の首級は経ヶ岡の地にさらされた。
 近世におけるこの道は、仙台、盛岡、松前藩などの諸侯が江戸と国元とを往復する参勤交代に使用され、元禄2年(1689年)松尾芭蕉が『奥の細道』の紀行で、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す。 」と旅したのもこの道である。
 明治10年代の後半になると、国見峠の急な坂道は車馬の通行に適せず、山麓に新道が開通されるにおよんで、長坂道は廃されて歴史的な使命をを終えるが、旧道の景観と遺構はよく保存がなされている。
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東山道が福島盆地の平野部を過ぎ、今日の宮城県白石市、さらに平泉方面へ北上するには阿津賀志山(あつかしやま)の東麓(とうろく)から、貝田の地狭部と県境の峠を通らなければなりませんでした。現在も国道4号線、東北自動車道、東北本線などが重なり合う、交通の要衝になっています。両側から山地が迫るこの地狭部は、攻めるに難く守りやすい地形から、東山道を遮る形で、大木戸や防塁を設置して、鎌倉軍の北上を阻止する、防御地点として、選ばれたと思われます。
阿津賀志山(あつかしやま)の中腹から平野部に向かって阿武隈川の岸にいたるまで、約4kmにわたって、延々と築かれた空堀と土塁とからなる防御施設が阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)です。大部分が内と外二条の堀と土塁とからなっていますが一条の所もあります。防塁(ぼうるい)をつくるに要した労力は延べ25万人、6ヶ月以上もかかったと推定されています。この防塁をこの地では二重堀(ふたえぼり)と呼んでおります。
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厚樫山防塁
[国史跡] 源頼朝率いる鎌倉軍を迎え撃つため藤原泰衡の奥州軍が築いた堀と土塁からなる要塞施設。
この地区では、岩盤を削って2重の堀が造られるなど堅固な構造となっています。国見に阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)あり。奥州藤原氏の興亡をかけた決戦場。
阿津賀志山の戦は、義経の死後百日目にあたる。

国見町に現在も残る「阿津賀志山防塁」。それは、義経の死後、奥州制圧に向かう頼朝軍を迎え討つ藤原軍が築いた防御施設です。「平泉政権」の終焉をつげる奥州合戦の戦場となった「阿津賀志山防塁」を検証しましょう。
鎌倉軍を迎え撃つ大防御施設。
義経の自刃を機に奥州を制圧しようと、頼朝は全国のご家人を動員し、仙道、東海、北陸の三方面から平泉に向かいます。それらを迎え撃つべく、藤原氏は阿津賀志山(あつかしやま)に二重の空堀と三重の土塁からなる、長さ約4kmに及ぶ防塁(ぼうるい)を築いたのです。1189年8月8日早朝。鎌倉軍と奥州軍が激突。戦いの火ぶたが切られました。世に言う「奥州合戦」です。両者一歩も退かぬ戦いぶりでしたが、3日後阿津賀志楯(あつかしたて)は陥落してしまいます。やがて頼朝の軍勢は平泉を占領。藤原泰衡は家臣に謀殺(ぼうさつ)され、奥州藤原氏は滅亡します。なぜこの阿津賀志山防塁が、構築されたのであろうか。
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通りすがり、高圧線の保守管理作業をやっていた。寒いし、高いしこれは大変な作業だ。ご苦労様です。
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わが町にも萱の大木がありますが、ここのは凄いなにしろ日本一なのだから。
今日はサプライズが、2年前に仙台カゴに登った時にご一緒しました、黒付山ピナクルを初登したあの御大…そうタカハシツギヨシさんがおりました。
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伊達五山・観音寺
江戸時代に、全国有数の大藩であった仙台藩主伊達氏は、ここ桑折町が発祥の地である。伊達氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした合戦で手柄を挙げた常陸入道念西(朝宗)が伊達郡に入部し、伊達氏を称したのがはじまりである。
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  観音寺の創建は宝治年間(1247~48)に四代伊達政依が父親である伊達義広の菩提を弔う為、開基したと言われています。当時、伊達五山(満勝寺、東昌寺、光明寺、観音寺、光福寺)又は伊達五ヶ寺と呼ばれた寺院の1つで、他の4つ寺院が伊達氏と共にしたのに対し唯一現在地に留まりました。その為、観音寺には伊達氏縁の品々が当寺に残り多くの文化財を有しています。
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桑折西山城本丸
伝承によれば、1189年(文治5年)の奥州合戦の戦功によって、伊達郡を与えられた常陸入道念西が居を構えたと言われている。また、応永年間(1400年頃)に伊達政宗が鎌倉公方に背いて立て籠もった赤舘もこの西山城と言われている。
1532年(天文元年)、伊達稙宗は居城を梁川城(福島県伊達市)から桑折西山城に移した。西山城が現在の規模に築城されたのはこの時である。稙宗はそれに先立って陸奥国守護に任じられており、西山城は文字通り陸奥国守護の府城となった。天文5年には分国法「塵芥集」も制定されている。
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しかし、1542年(天文11年)、稙宗の三男・伊達実元の越後上杉氏への入嗣問題を巡り、稙宗の嫡男・晴宗が稙宗を西山城へ幽閉するという事件が起きた。この事件を契機に、伊達氏は稙宗方と晴宗方に分かれて内紛状態になり、さらには南東北の諸大名も巻き込んだ大規模な内乱状態となる(天文の乱)。この内乱は約7年続いたが、この間西山城では何度も両軍の攻防戦が展開された。戦況はしだいに晴宗方が優位となり、1548年(天文17年)に将軍足利義輝の命によって両軍は和睦し、晴宗が伊達氏家督を継いで稙宗は丸森城(宮城県丸森町)に隠居した。また、晴宗も居城を米沢城(山形県米沢市)に移し、西山城は破却された
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1990年(平成2年)に国の史跡に指定された西山城は、東側から高舘・中舘・西舘といわれる3箇所を中心とした、数箇所の郭(曲輪)によって構成され東西1キロメートル、南北500メートルの規模をもつ。城の北面から東面へ流れる産ヶ沢川は天然の堀として利用され、城から川にかけては急崖である。比較的、傾斜の緩やかな南側には現在は、観音寺という伊達氏ゆかりの寺が残っている。また、西舘の南には枡形虎口、周囲には石塁が残されている。
赤館・山城(215m/100m)
築城年代は定かではないが鎌倉時代に伊達朝宗によって築かれたと云われる。 伊達朝宗は藤原氏山蔭流の後裔で仙台藩伊達家の祖である。常陸国新治郡伊佐荘を治めていた豪族で、源頼朝に従って奥州合戦に参加し、その恩賞として陸奥国伊達郡を賜り、常陸国は嫡男為宗が相続し、朝宗と二男宗村が奥州に下向、赤館を築いたという。
応永7年(1400年)伊達大膳大夫政宗は関東公方足利満兼に背き、関東管領上杉氏憲らの攻撃を受けて赤館に籠もり、これを撃退しているが、応永9年(1402年)に降伏している。
天文元年(1532年)伊達稙宗が赤館を改修して西山城を築き、梁川城から居城を移した。 天文11年(1542年)から天文17年(1548年)まで続いた伊達稙宗・晴宗父子による天文の乱では、晴宗は稙宗が鷹狩からの帰路を襲撃し、この桑折西山城へ幽閉している。間もなく小梁川宗朝によって稙宗は救出され石母田城へ逃れるが、天文の乱とよばれる奥州を巻き込んだ伊達家の内訌へと発展していく。
天文17年(1548年)室町将軍足利義輝による仲裁で和睦が成立し、稙宗は家督を晴宗に譲り隠居地として丸山城を築いた。晴宗は米沢へ移り西山城は廃城となった。
延宝7年(1679年)本多忠国が大和郡山から福島藩十五万石に封じられ、西館に築城する予定であったが、天和2年(1682年)播磨国姫路に転封となり実現しなかったと云われる。
桑折西山城は奥羽山脈から東へ伸びた丘陵の先端頂部に築かれており、北から東、南へと産ヶ沢川が流れている。
桑折西山城は標高193.1mの高館山山頂にある高館山城本丸、西に二ノ丸、南に砲台場。そして、その西の標高215mの所に西館・中館があり併せて西山城となる。
高館城本丸・二ノ丸は土橋の架かる空堀があり、本丸の東下に東虎口、南の砲台場の所に大手門跡がある。二ノ丸の西端には石積された土塁があるが、全体的に広大な削平のみの曲輪となっている。南にある砲台場跡は戊辰戦争のときに仙台藩が砲台を据えた所で、土塁に等間隔で砲台を据える為の凹みが残っている。
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高館城本丸より高い標高215mの所にあるのが西館・中館で、土塁(石塁)囲みの曲輪が空堀を挟んで東西にあり、北側はさらに横堀が巡っている。中館の南側には「ル」の文字のような形のI時の土塁とL字の土塁が付いているが、用途は不明。西館は西側一帯は石塁になっており、西側に虎口のような石塁囲みの空間が残る。
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霊山が見えます。
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霊山の南側には七峰山がまだ来ないのと…計画してからもう10年過ぎてるな。
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昼食・奥州街道桑折宿特製ランチ
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このほかに、餅がついたので満腹まんぷく。
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参加者一同大喜びの昼食でした。
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宿場町の桑折はまだこのような建物がある。
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芭蕉の田植え塚へ
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伊達五山・満勝寺(伊達朝宗墓所)
當午山満勝寺(満勝禅寺)は、伊達氏初代朝宗公の菩提寺として、鎌倉期の弘安六年に伊達氏四世政依公により、現在の福島県桑折町に開創されたとされていますが、近年の調査で政依公以前に満勝寺が建立されていたことが明らかになりました。
政依公は満勝寺のほかに、光明寺、東昌寺、観音寺、興福寺を建立、京都東福寺第五世の仏智禅師を招聘して五山の開山とし、政依公はこれを京都や鎌倉に倣って伊達五山と称しました。
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江戸期には、伊達氏十七世・仙台藩藩主の政宗公が仙台城築城後の元和三年(一六一七年)に北山に小庵を建立し、満勝庵と称しました。その後、伊達氏二十世綱村公によって現在の地を賜ったのは、寛文七年(一六六七年)のことになります。藩政時代には、御一門格(伊達氏の格式)に列せられるなど、永く篤く護持されてきました。
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バスの中で誰かが叫んだ…ここのアンパンが超うまいって…仙台から買いに来る方もいるそうだ。
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桑折郡庁舎は毎回通り過ぎ…いつかは見よう。
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佐藤家・ゆかりの医王寺
義経が挙兵した頼朝のもとへ駆けつける際に従い、目覚ましい活躍を遂げた佐藤継信・忠信兄弟。)
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しかし、継信は屋島の戦いで、忠信は京都で、それぞれ義経の身代わりになって壮絶な最期を遂げています。
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この佐藤継信・忠信兄弟の墓をはじめ、佐藤一族の墓が並ぶ医王寺。武蔵坊弁慶の笈(おい)が納められ、松尾芭蕉の句碑も立っています。(福島市飯坂)
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右手が佐藤継信・忠信兄弟の墓ですが、両脇が削られて細くなっています。御利益があるからと昔は削られたそうですよ。
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通り過ぎていた桑折町、今度はゆっくりと徘徊しましょうか。
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予定通りの時間で研修会を終了です。
ご案内いただきました桑折町商工会 渋谷会長さま、桑折町文化財調査課長関根さま、お忙しいところ史実からみた古の歴史案内を有難うございました。
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お土産にいただきました、銘酒「桑折」美味しくいただきました。(おっ家内が迎えに来るので…(楽笑))
そして、「おくの細道松島海道」のみなさん師走の歴史探訪…まんぷくです。
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追記…そう、高橋御大と後部座席で一緒でしたのでボソボソとお山の話も貴重でしたな。
県内で取り残したお山は…。県内で薦めるお山は……この答えは次回…なのかな。
磐司沢のことを聞きましたら、「おっ、あそこはソロで私が初なんだ」と、呟いてくれました。
このこと調べましたら、1973年に初登でしかも単独でこの滝を登った山想会の高橋氏であることが記載されていました。
また、1966年には黒伏山南壁中央ルンゼの初登攀を2名パーティで開拓していることは2年前にこの南壁を仰ぎながら生の説明を聞いたことを思い出した。

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興味深いコース

おッ、これは興味深いコース設定ですね~。
企画は、京野プロダクションでしょうか?

師走の歴史探索

やまぼうしさん
都暮らしは慣れたでしょうか。
私も案内が来たので、すぐ飛びつきました。
まさに、一本釣りです。
丸京さんことそうです、京野プロダクションです。
皆さんにお世話になりました。
プロフィール

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Author:FC2USER696672BEO
「マロのページⅢ」ブログへようこそ!
やんちゃ姫のマロ子とお山を歩きます。(^o^)

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