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「那須国造碑」ここまで来るのに半世紀かかったなぁ~

2020.3/8 マロ子も便乗、行先は宇都宮市へ、4時半に出て郡山まで下道を走った。
新型コロナ騒動で道路はスカスカで、郡山から高速に乗る。
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用務を終え、自分の土産に金賞を取得した地酒をゲット。
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ここまま帰宅するのはもったいない、以前から行きたかった場所へ…、途中、古刹があったので下車。
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人生そうだったんだと自問した。
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笠石神社(那須国造碑)へ17時前に到着…
笠石神社 - コピー (2)




その名の通り、頭に笠のような石が乗った二段構成になっておい、ゆえに笠石だそうだ。
建立されたのは700年、多賀城の碑、多胡の碑と日本三古碑といわれ、国宝に指定されている。
すでに17時の夕焼け小焼けの放送が響いていた。
古碑は社殿に施錠されている。…ここまで来たのに残念と諦めた…。
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そこへ、宮司さんが現れてた。30分かかるが説明と現物を見せますからと…宝くじは当たらないがラッキー。
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宮司さんは教鞭をとっていたらしく、力のこもった解説、説明が上手で引き込まれていきます。
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話の内容ですが、興味のない方は飛ばしてください。
付近の上侍塚古墳、下侍塚古墳を水戸光圀が発掘しようと思い立ったのはこの碑が発見されたことがきっかけです。
碑は建立されてまもなく何らかの理由で倒れ、そのまま1000年以上文字の刻印された面を下にして放置されていようです。
それを江戸時代になって旅の僧が偶然に発見し、近くの馬頭村(現:那須烏山市)の大金重貞という者に報告、それが三戸光圀の耳に入ったのであった。




1000年もの長きにわたって放置されていたにも関わらず、碑文側の面が土に埋まっていたことで文字はまったくといっていいほど摩滅していなかった。村人は、古墳や正倉跡と同様、なにか曰く付きらしい碑を畏れ、その存在を知ってはいたものの "手を触れると怪異が起こるから" と近づくことはなかったのである。信心深いにもほどがあるが、お蔭でこの石碑は良好な状態で近世まで保存される。

1000年経ってはじめてその倒れた碑を起こしてみたのが旅の僧だった、というのも面白い。
この僧が好奇心を起こさなかったら、その後もうあと100年経っても村人が自分からこの碑に関与しようとはしなかったのではないだろう。

碑文は全部で152文字、当時の常識としてすべて漢文である。内容は、当時那須国造であった那須直韋提(なすのあたいのいで)が亡くなったので、息子の意斯麻呂(おしまろ)らがその遺徳を称えているものです。
鞘堂外観。・・・が、残念ながら写真はここまでである。
御神体の撮影は禁止となっているとのことで、実物を説明後実物を見て往古の偲んだ。
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「永昌元年(689年)己丑(つちのと・うし)四月、那須の国造の追大壱であった那須直韋提は飛鳥浄御原大宮より "評督" という官位を授かった。そして庚子年の正月二日、壬子の日の辰の刻に亡くなった。そこで嫡子である意斯麻呂(おしまろ)を首とする我々は故人の遺徳を偲び碑を建立した。」
笠石神社 - コピー (3)_R




・・・その先は、いかに故人が素晴らしい人物であったか、ということが延々と書かれている。
注目すべきは 「永昌元年」 の記述だろう。これは唐の元号だ。日本では645年に大化の改新が行われ暦には日本独自の元号を用いているが、ここでは中国の年号になっている。だから日本人の作成としては不思議。

この時代は、日本書紀によると新羅人が下野の国に移住したとある。当時の渡来人は知識人や技術者として迎えらた。だからこの碑文も新羅人が書いたのではないかと言われている。碑の外観や書体が当時の大陸風の造りとなっている点からも渡来人の影響がうかがえる。
笠石神社 - コピー



建立が700年とされているのは亡くなったのが庚子(かのえ・ね)年とあるためだ。十干十二支(じっかんじゅうにし)は60年で一周するので年の特定の手がかりとなる。永昌元年以降直近で庚子となるのは西暦700年(文武天皇四年)という理屈である。ちなみに評督という官職は大宝律令(701年制定、702年施行)以前の官職でありここからも年代が絞り込める。ちなみに "評" という地方行政単位は大宝律令以降は "郡" と名を改め、そこを監督する官職は "郡司" とされた。(※この付近に "郡司" という姓が多いのは、明治期にこれにあやかって創氏した者が多かったせいかもしれない)

なお 「追大壱」 も 「評督」 も大和朝廷の官職だが、一生のうち二度も官職を与えられるというのは地方の者としては異例のことだった。

そんな碑文の内容が明らかになったとき、水戸光圀は 「近くの古墳に埋葬されているのは、その那須直韋提ではないか?」 と疑問に思ったのである。かくして、その仮説を裏付けるための発掘調査が行われるに至るのである (結果は証拠不十分で埋葬者の明確化はできなかったが)。

調査の後、碑(=笠石)の周囲一町部(≒1ヘクタール)は水戸藩直轄領とされた。そして笠石は風雪による摩滅から保護するため鞘堂に収まった。この処置は佐々木助三郎宗淳(=助さん)を通じて行われ、以降代々近くの民家が管理になり、それが現在の笠石神社なのです。

※この調査が行われている頃、この辺りを領していた那須家はお家騒動を起こして改易となり、所領は幕府に召し上げらた。割とすんなり碑の周辺が水戸藩(→徳川御三家のひとつ)の直轄地になったのはこのあたりの事情も関係しているのかもしれない。

さて普段は閉じている門を開けていただいた。那須国造碑(笠石)は国宝なので常時一般公開されているわけではない。ただし宮司さんにお願いすれば見せていただくことは可能である。
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那須の山々がまた来いよと手を振っていた。21時半帰宅。
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No title

最後の一枚素敵ですね。
夕方6時でもこんなに明るいし雲海も・・・

四季桜、、、覚えておこうっと(*^-^*)
地元に行かないと手に入らないのかな❓

「二つ目の壷の碑」

nadeshkoさん
最後の一枚の左側…遠くに男体山も見えましたが小さくてカット。
四季桜、、、まいにちチビチビと半分無くなりましたよ。
今回の旅は、那須国造碑と多賀城碑の比較でした。
那須は花崗閃緑岩、多賀城碑は花崗岩質砂岩…ですから砂岩が気にかかる。
1000年以上前以上の記念碑ですが、どうしても砂岩材質の多賀城碑は文字が崩れておらず鮮明すぎる。
真贋論争に一応の決着はついてるようですが自分にはまだまだ??。
こんな記事もあります。
東北大学名誉教授 秋月瑞彦(多賀城市の在住でした)
世界的な権威、鉱物学研究50年で得た成果を簡単にまとめたページです。
http://makizuki.web.fc2.com/

そして、「二つ目の壷の碑」は眉唾もんです。
これを見ると視点がかわります。
http://makizuki.web.fc2.com/novel1.html
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