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中世の関山古道…

とりあえず編集はいったん終了ですが、今後も加筆、修正しながら進めたいと思います。
5/8 県境の3滝を画像に加えました。
「中世の関山古道」という題名となりましたが、
これまでその1からその3まで記していた幻の道幻の峰からの続きです。
山友のSさんからいただきました画像は後白髭山からみた面白山山域です。
これぞ眉唾もので、この画像の撮影時には1043p峰の下にある北沢南林道に私らがおりましたのは感慨深いものです。
Sさん有難うございました。このブログにてお礼申し上げます。
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画像は明治2年に作られた奥新川周辺の絵図です。
仙台藩の領地となる山奥に木材の切り出しを行っていたようです。
不鮮明ながら沢の名前まで記していることは大事な場所だったでしょう。
浅井さんの呼びかけで始まった古道探しは何となくこれだったのでは…いや、これだという確信に近づきます。
まず、江戸期に山形と仙台に通じる街道は、 二口街道、 笹谷街道、 関山街道(峰渡り)の三道です。
明治期に入り、①東根猪野沢から新川に通じる小山田新道 ②面白山山域の奥新川峠を越えて新川に通じる駒新道 ができました。
しかし、山形県令の三島通庸が作った関山旧道の完成により、前記した①②の新道は衰退したものの昭和30年台までは地域の生活道路として使われていたようです。
さて、表題の関山古道ですが、確かに江戸時代以前にも仙台から山形に通じる街道?があったと、浅井氏の考察がありました。
えっ、そんな根拠はどこに…??。
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前述の画像に考えられるべき地名を記載しました。
不鮮明ながら現代に通じる地名は「猪沢入口」、「とっくら山はワックラ」で東船倉山でしょうか。
中央の「山向きく岩」は新川岳でしょうか。この新川岳を中心とする絵図からは色んな部分が見えてきました。
覚えておいてほしいのはとっくら山の左下に「タイコ沢と金山沢」があります。
ここは後で述べますが銅鉱山がありここから鉱物が人力で運ばれたようです。
当然、作業道があることになりますが、この作業道はその昔より使われていた中世の関山古道と結ばれるようです。
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関山街道とは
山形から奥羽山脈の関山峠を越えて仙台に至る街道は、かって山形からは関山街道、仙台からは作並街道と呼ばれていましたが、次第に関山街道を言われるようになり現在の国道48号となっています。
関山の山々は標高は800m前後で高くはないものの、急峻な地形であるため登り口が急坂で牛馬が通行できなかったことから、主に人々の往来の道としての役割にとどまっていたようです。
この道が本格的な物資輸送路としてその地位を確立するのは、明治15年(1882)に山形県初代県令となった三島通庸の手によって関山に隧道(関山新道)が切り開かれたことです。
その後、幾多の改修工事がなされましたが車社会が到来してこの隧道は役目を終えて、昭和43年にはこれより北側に新トンネルができ現在に至っています。
これまで、私のブログではかっての関山街道(萬治3年(1660)に伊達藩により開かれた江戸期の関山街道)と、小山田(猪野沢)新道(明治10年(1877)に焦点をあててアップしてきました。
10年前に東郷公民館で開催されました浅井氏による「幻の公道 小山田新道」を聴講して興味を惹かれることになり、幾多の機会を通じて浅井氏とお会いするうちに、前述した関山街道以前の道があるようだ。
いや、間違いなくあるのでその確認をしようということとなりこの春に地を踏査しました。
 その調査と推論となりますが、今から549年前にお坊さんが関山を越えた史実。434年前には天童城主の関山越え、明治維新には天童織田家の関山越えが文献にありました。浅井氏が語るのはこの史実の道は「関山峰渡り」にあらず、小山田新道の大境から新川に至る道が間違いなくあったと…。
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〇【古来の道】
秋保町史によると、古来から新川の初の小屋から山を越えて山寺までの道のあったことを伝えております。
また、資料等により明確には確認されていないが、地形的には初の小屋から奥新川方面を通って山を伝い、県境の大境境を越えて猪野沢までの道のあったことは否定しきれない。(参考文献2007.12小山田新道の発掘 浅井紀夫著)


〇【言い伝えと森林計画図の破線から】 
猪野沢から宮城県側に到る古来からの道があったと伝えられるが、その路線は岩崎から吹越を越え、一旦関山側の横沢側へまわった後、北面白山から主稜線を北に下った、地元では「大境」と言われてきた県境鞍部(標高830m)まで登り、そこをそのまま越え、急斜面を下り、北沢から南沢へ回り込み仙山線よりの尾根へ取り付き、荒沢を渡り、新川の初ノ小屋へ至った道が推定される。画像は大境から東側の森林計画図で今回歩いた部分です。
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〇【鉱石の運搬道】
鉱山用運搬道路として、山形県側では一時的ではあるが昭和28年ごろには県境近くの宮城県側において採掘した銅鉱石を背負い、前述の大境といわれた標高830m程度の県境鞍部を越して、ここから小山田新道を利用し、リヤカーで猪野沢の岩崎まで運びだした歴史が残されている。
その鉱山では、採鉱夫は宮城県人、飯場の日常業務や運搬には山形県側の人が当たったと伝えられている。
さらに、宮城県側においても、明治、大正、昭和の10年代にかけて奥新川寄りの鉱山において採掘した銅鉱石を、宮城県側の小山田新道を利用し、作並方面へ運び出した歴史も残されている。

 以下、その史実と現地の踏査に焦点を当ててみました。

〇【願正坊の関山越え】
願正御坊は越前国の菅生という所の人で、奥州松島金華山を御一見のためひと夏を下向したようです。
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文明5年(1473)に浄土真宗の僧であったが関山を越え、布教しながら天童市の高 に到り、現在の「願行寺」を創建した。この、関山の山中で道に迷っていた願正坊を道案内した関山の杣人(そまびと・山仕事に従事する樵(きこり))であった。
翌文明4年にはトンチの一休さんが活躍…(一休宗純が大徳寺の住持に就任。応仁の乱後の大徳寺復興に貢献。)
※画像は1483年となっていますが、天童市史に記載された1473を採用いたします。
画像の願正岩は国道48号線を下り一つ目の砕石場を通過させていただき、横沢林道の途中にあります。
目的の猪野沢に抜けられず迷ってしまった願正坊は杣人に助けられ命びろいしたことでしょう。
ここに迷い道したことは奥羽山脈の大境から水分を通過して下ったか定かではありませんが、私たちの登山ルートと相通じるものと思います。

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〇【天童頼久の関山越え】
天童城主であった天童頼久は、天正12年10月(1584)の最上義光との村山地方における覇権争いに敗れ、母方の国分氏(伊達政宗公のオジサン)を頼って関山を越え、国分氏の重臣が館を構えていた愛子に逃れた。その後、天童氏は伊達政宗の家臣となって多賀城の居を構えています。
 天童落城並仏向縁起によれば、天正12年10月10日天童頼久は17歳にして奥州(仙台)へ落ちる。草刈庫守・湯村近江ら200余人随う。原崎(現東根市)より関山に向かう。湯村近江守お供して愛子原(旧宮城町)に到り死去す。
※群雄割拠の時代、国破れた天童城主の頼久は関山を越えて愛子に至るようです。
この経路は詳しく記載されていませんが、江戸期の関山峰渡りが開かれるのは80年後になりますことから、前述の願正坊が辿った道と思います。



〇【天童の戦い・戊辰戦争】
慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し、天童藩織田家は新政府から奥羽鎮撫使(ちんぶし)の先導役を命じられまし。
たった2万石の小藩ですが、「信長公につながる格別の家柄」というのが理由だったでしょうか。
 その直後、病弱だった2代藩主・信学(のぶみち)は隠居して家督を15歳の長男・信敏(のぶとし)に譲ります。
 信学はなお実権を握っていたが、実際に先導役を務めたのは中老の吉田大八でした。
大八は今も続く「将棋駒」の製造を下級武士の内職として奨励するなど、藩の財政改革に手腕を発揮していたようです。
 鎮撫使が山形入りする直前、佐幕派の庄内藩が寒河江と柴橋の代官所から年貢米を運び去る事件が起きた。これを口実に鎮撫使側は庄内藩攻撃を命じるが(柴橋事件)、先導役の天童軍は200人足らずです。
戦闘を避けたい吉田大八の懇願で寒河江の庄内軍は撤退したのですが。
 ところが、鎮撫使軍が清川(現庄内町)へ侵攻したことに激高した庄内軍の一部が攻勢に転じ、天童城下を焼き払ってしまう。前藩主の信学と家族は奥羽山脈を越えて仙台藩へ逃げ込んだ。
「参考~やまがた~藩主の墓標/(39)戊辰戦争に翻弄された天童藩」
※ 今から151年前の出来事は天童市史に詳しく経路が記載されていました。


天童市史編集資料第11号(明治紀元辰戦争事件1979.2幕末維新資料)を抜粋した部分を記載します。
この時、天童織田家の逃走経路は、山家村より若松(若松観音あたりか)へ出て二子沢を通り山口村へ入る。
農夫の半十郎をはじめ8人を雇い案内をさせ山深く入る。
不動尊の前にて御中食を  夫より谷々沢々を下り山を越え
田麦のへ至るころは先に自性院案内にて20余人 まもなく大殿 奥方 若君
この時名主の村山久四郎 東海林源四郎の両人先に同村揚泉寺(田麦の寺)へご案内にて御入る  食事は両家より奉差上げ
この折 田麦野村(天童高原の北側)は寒河江御預所にて山田佐金治代官の預かりなり
ゆえに同村より間道である山道の案内人として人夫の栄八、長助、定治、永久、久右衛門、七三郎の6人
先に立て 猪野沢村に到りし頃は 追々 御家来も駆けつけた
この時 小山田利兵衛(小山田新道の開設者)よりも御食物が差し上げられた
なおも 人夫3人を御雇い案内致させ山深く入る
炭焼き小屋にて一夜を明かし 翌5日荷川(現青葉区新川)に出る
然るにこの所の堅めは伊達六郎也
故に 閑道案内の山口の人夫8人 田麦野の人夫6人 猪野沢の人夫3人  直ぐにからめ捕らわれ縄にかかる
仙台へ引かれ同月10日に御免となり その節 賞詞があった
のち 織田家より右の人夫米1俵ずつ  尚もまもなく酒井屋甚兵衛宅にて織田家より人夫一同へ御酒肴を頂戴にて金3円づついただく
夫より織田家 荷川(現青葉区新川)より長袋(現秋保長袋)へ至り禅寺へ2夜御泊りの折は…
夫より馬場西光寺(秋保馬場)へ3夜御泊りして秋保外記(秋保家14代秋保盛章)領の湯元(現秋保温泉)に至る
夜は佐藤甚右衛門方へ至りし頃は100有余人なり
※ 明治10年に開かれた小山田新道の前提となります古道の踏み跡を辿り県境の大境から荷川(新川)へ辿ったようです。
この時代、山深く炭焼き小屋も至る場所存在し、作業道としての道が確立していたことは間違いないでしょう。
浅井氏が曰く、新川岳の北側には銅鉱山が存在していたようで、東側の金山沢は宮城の採掘、西側のタイコ沢は山形側の採掘と区分されて山形へは北沢右俣の沿線に開かれた作業道を利用して大境を経て猪野沢に背負って運んだようです。
これをまとめますと、明治10年にできた小山田新道は太古からあった作業道を利用して開削し、新道を作るために役所に
出した明治4年の文書には仙台へ通じる道があると記載しています。

参考まで、昭文社の地図に記述されている地名を書き込みました。
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〇【奥羽山脈越えの新道開発切り開き願い・小山田新道】
明治4年、猪野沢から奥羽山脈を越えて宮城県新川へ至る道の切り開きを小山田正見(10代理兵衛)が、山形県令へ出願する。
明治7年 小山田正見・小山田為吉の兄弟がこの道を車道(馬車道・荷馬車道)として位置付けて山形県へ出願しさらに進めていく。
工事費用は、私財をもとにして山形県からの下し金(補助金)も給付され、民活事業の形で進められた。明治10年猪野沢から新川まで完成するも、三島通庸の進める関山新道が明治13年に着工し明治15年に完成し小山田新道は衰退の道を辿ることとなる。
山形では小山田新道、宮城では猪野沢道路と称している。
(2014.3 天童野草に親しむ会総会の講演から  講演者浅井氏)

※ 小山田氏は先にも述べたように、天童織田家が仙台へ落ちのびる際の協力者です。
その後、猪野沢村の有力者として小山田新道(総延長27㎞)を開削しますが、山形県令三島通庸の薦める関山新道の開設で通行の主力を奪われてしまい北海道へ移住してしまいます。
小山田新道を開設する願いを役所へ出した文書ですが、その熱意が感じられます。
赤線枠を私なりに訳しましたが難解でした(笑)。
「陸前の国の仙台への往還の道は数か所あります。関山峠を越える者は絶頂(標高)高く積雪が多く冬分の往来する者は難渋(苦難)している……猪野沢から陸前の国の新川まで越えるところは絶頂(標高)格別に低いので積雪も遅い 普段の道路でないのだから古い通りの道筋にて……」
願い人には小山田兄弟の名前があります。

小山田文書



さて、大境から2度にわたって宮城県側へ踏査しました。大境から見えた800mラインの水平道は確かに存在し東へ延びていたものの大崩壊場所で道は消失したもののその向こうには間違いなく道が続いていました。小山田新道と同じ標高ラインですが道幅はやはり人が行きかう程度でした。
北沢右俣となるこの沢は北面白山から直下にあたるようで国土地理院地図にはない2ケ所の滝が存在していました。
大境からヤブを漕ぎ降りるとジグザグの道跡が残っており沢にあたります。この沢には高さ10mの斜滝があり、大境に近いことから大境滝と呼ことにしました。雪どけの沢は水量を増していましたが長靴で歩けようやく咲き出した春の花々が顔を出して迎えてくれます。やがて沢水は急降下で落下、高さ10mの滝に出会いここで進むのを断念し、右手の細尾根を登りヤブを越えて水平道に到達しました。やはり、ガレ場まで行こうとなり薄ヤブを辿るとこの辺りでは稀な大崩壊のところまで近づくことができました。草木は生えておらず最近の崩落ではないかと…、帰宅して地図を比較したらS43には記載なく、S46には崩落個所が記載されていました。この年代にはS39の新潟地震がありますが要因はこの影響かと…想像するだけでした。
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s43国土地理院地図、丸印ないには崩落個所なし。
S43北面白山 - コピー_R

s46国土地理院地図、⇒に崩落個所あり。
S46北面白山崩壊 - コピー_R


これまで述べたことを一覧図にし、推定されます関山古道を青点線で表示しました。
史実として、願正坊の仙台からの山越え(奥羽山脈)、天童頼久の仙台(愛子原)への山越え、幕末期には天童織田家の仙台(秋保長袋)への山越えはこれまで述べたとおりです。しかるにこの山越(奥羽山脈)えはどの道であったのか…。
太古より日本海と太平洋側との交易があったようで、七ヶ浜の大木貝塚からは土器を接着したアスファルトが出土しています。このアスファルトは新潟か秋田からの交易品だったのでしょうか。
また、北面白山の頂上付近からは縄文時代の石器を採集しており、この山には古くから人が入っていたことは確かであると「宮城の山ガイド」で執筆者の深野稔生氏が述べています。
これらのことから、古くから道が存在しており、この道は人も獣も共通路でありやがて生活道路となり軍事道路、産業道路(鉱物や炭焼き)として併用されてきたものと思慮します。
まだまだ、中世の関山古道はスタートノしたばかりですが水平道が東に延びる北沢右俣の渡渉地点まで辿ってみたいものです。
関山古道



グーグルで見ますとわずかながら水平道⇒が確認できます。
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書き込んでみました。
大境付近


大境から宮城側のスマホルートです。
一般道ではありませんので望むときはそれなりの装備と体力と山知識の覚悟でお願いいたします。
大境ルート


登山体系「普及版」㈱白水社発行291pの北沢南沢流域の概念図に関山古道を推定ルートを図示しました。
登山体系関山古道


水分滝は山形側にあります。小山田新道が横切る場所には明治期の石積みがあり木橋の基礎となっていたようです。
落差は10m程度、岩肌が脆く直登はできません…私は。この滝のすぐ上には河川争奪の地形が残されています。
水分滝_R


大境滝は宮城側にあります。約10m程度の斜滝ですので何とか登れるでしょう。
ここを遡上すれば北面白山へ辿ますがもう若くないのでやめましょう。
大境滝_R




西船倉滝は大境滝から宮城側へ500mくらい下る位置にあります。最初、上部から見たときにはやはり10mはあるかなと。
次に下から辿りましたら、段差があり上部は6mくらいの高さで、左岸を巻けば行けますね。
この、西船倉滝の右岸は小尾根になっていますのでこちらを巻きました。
西船倉滝_R



おまけです(笑)
※奥新川駅の南側山稜は奥羽山脈から東へ延びる尾根が派生しています。
この稜線にも小山田新道と同じような駒新道とこれに接続します長左衛門道がありますので記載しておきます。
駒新道は廃道で崩落個所とヤブに埋もれています。

〇【駒新道】  仙山線面白山高原駅から沢沿いの登山道を3時間ほど進んで行くと、奥新川峠の表示板の立つ県境尾根に達する。秋保町史(昭和51)によると、山寺からこの峠を越え新川の初ノ小屋や秋保方面へ抜ける古道があった。
この道をもととした馬車の通行を可能とする道の整備は、奥新川峠を挟んで、宮城県側、山形県側とも夫々山形県側の人の手により行われた。
宮城県側は秋保町史によれば明治12年頃に運送業を営んでいた高瀬大森の安孫子駒吉により自費を投じて整備され、その名前に因み「駒新道」と呼ばれている。


〇【長左衛門道】  山寺の千住院から天童高原に登りそこから緩やかな勾配で北面白山の西麓を巻きながら、長左衛門平と呼ばれている吹越(仙山線面白山トンネル地上部)を通り奥新川峠に達する道である。開いた人は、山寺千住院の後藤長左衛門の名に因み長左衛門道を称されている。この道は、奥新川峠で宮城県側からの駒新道に合流し、新川の初ノ小屋や秋保方面に抜ける馬車の通行を想定したものであった。宮城県側は林道の開設や大規模な伐採等によりすっかり荒廃しているが山形県側の天童高原から長左衛門平までのあいだは登山道として使用されている。

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